柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)

隠れ里と呼ばれた大和国の柳生の里(奈良県)の柳生氏、その嫡男、柳生石舟斎(宗厳、新介、新左衛門)は若いころから剣術に通じ、様々な剣術を学んだといいます。時は戦国、柳生氏も戦乱に巻き込まれていきました。そんな中でも石舟斎は手柄をあげ、名を上げていきました。

新陰流との試合

そんなある日、上泉伊勢守の一行がやってきたという知らせがあり、友人である宝蔵院胤栄のいる興福寺内の宝蔵院で試合をすることになりました。石舟斎はまず弟子の疋田文五郎と勝負することになりましたが、疋田が三度勝利したといいます。

無刀取り

石舟斎は上泉伊勢守たちを里に招き弟子入りしました。滞在の後、上泉伊勢守は「無刀取り」を工夫してあみだすようにと託し旅立っていきました。上泉伊勢守が妙興寺で狂人に突然切りつけられ、その刀を素手で受け流し開眼したのが「無刀取り」です。上泉伊勢守はその工夫を石舟斎に託したのでした。

家康

時は流れ、信長が倒れ、豊臣秀吉の時代に入り、柳生氏は隠し田を理由に領地を没収されてしまいます。そんなおり、京都にいた徳川家康に招かれ、石舟斎は京都へ向かいました。

家康は上泉伊勢守の門下の奥山休賀斎などから剣術を学んでいる達人でもあります。家康は石舟斎に試合を求めました。家康の木刀は石舟斎に素手で引き取られ、家康は倒れてしまいました。あの「無刀取り」でした。

その後

家康は石舟斎を剣術指南にしようとしましたが、石舟斎は老齢を理由に断り、代わりに五男の柳生宗矩を家康に仕えさせました。柳生氏は天下分け目の関が原の戦いで徳川方に味方し、戦後、失っていた領地を回復しました。柳生宗矩はその関が原の戦いで頭角をあらわし、徳川幕府2代秀忠、3代家光にまで仕え、幕府を支えました。

一方、石舟斎の孫・柳生兵庫助は尾張の徳川家に仕え、宗矩の江戸柳生に対して、尾張柳生として歴史に名を残していきました。

※この記事は歴史に親しんでいただけることを目的に分かりやすく作成されたものです。

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